江戸時代後期に医学の発展に大きく貢献した三谷公器さん。
そんな三谷公器さんですが、一体何をした人なのでしょうか。
そこで今回は、
- 三谷公器さんとは何をした人なのか
- 『解体発蒙』に見る江戸時代の医学と解剖学
について詳しく見ていきましょう。
三谷公器とは何をした人?

江戸時代後期の医学界で活躍された三谷公器さん。
そんな三谷公器さんですが、一体どのような功績を残した人物なのでしょうか。
三谷公器さんは、西洋解剖学と東洋医学を融合させた医学書『解体発蒙』を著した医師・本草学者でした。
三谷公器さんは1775年頃から1823年に生きた近江出身の医師とされています。
名は「樸」、字が「公器」、号を「筌州」などといい、父の代から京都で医業を営んでいました。
また、江戸時代を代表する本草学者である小野蘭山さんに学び、本草学や博物学にも精通していました。
鳥や獣の解剖も行ったとされています。
三谷公器さんの最大の功績は、文化10年(1813年)に刊行された医学書『解体発蒙』です。
全4巻と附録1巻の5冊から構成されているこの本は、当時日本に入ってきた西洋解剖学の知識と、中国医学の五臓六腑説を組み合わせたことが特徴です。
単純に西洋医学を受け入れたのではなく、従来の漢方医学の考え方と新しい解剖学を融合させようとしました。
そのため、三谷公器さんは漢蘭折衷派の代表的な医師として位置づけられています。
三谷公器さんは享和2年(1802年)、京都で行われた解剖に参加しました。
これは荻野元凱さんの門人たちによって行われた解剖で、三谷公器さんは実際に人体内部を観察し、その経験を『解体発蒙』の執筆に生かしたとされています。
さらに、解剖の際に臓器をスケッチし、『解体新書』などの既存の医学書も参考にしながら、自らの医学的な考察を加えていきました。
『解体発蒙』に見る江戸時代の医学と解剖学!

江戸時代の医学書として高い評価を受けている『解体発蒙』。
そんな『解体発蒙』ですが、どのような特徴があったのでしょうか。
『解体発蒙』は、精密な多色刷りの解剖図と、西洋解剖学と東洋医学の「気」や「精神」を区別して考える独自の医学思想が特徴でした。
『解体発蒙』が現在でも高く評価されている理由の一つが、精密な解剖図です。
解剖図は多色刷りの木版画で、肺、心臓、胃、胆嚢、腎臓、脳、子宮など、さまざまな人体の内部構造が描かれています。
江戸時代の医学書の中でも、特に優れた解剖図を持つ書物として評価されています。
現在も東北大学附属図書館などで『解体発蒙』の画像を見ることができます。
三谷公器さんは、西洋解剖学を取り入れながらも、人体を単なる物質として捉えたわけではありません。
『解体発蒙』では、解剖によって確認できる身体の構造と、東洋医学で重視されてきた「気」や「精神」の問題を区別して考えています。
特に「精神解」では、死者を解剖しても、生きている人間の精神や「気」の働きそのものを解剖によって理解することはできないという趣旨の考察も見られます。
三谷公器さんを理解するうえでは、杉田玄白さんの『解体新書』から華岡青洲さん、そして三谷公器さんへと続く医学の流れを見ると分かりやすくなります。
杉田玄白さんらが『解体新書』を刊行したのは安永3年(1774年)です。
その後、日本では西洋医学の解剖学が徐々に広まり、漢方医学の医師たちの中にも西洋医学を取り入れる人々が現れました。
三谷公器さんはその流れの中で、西洋解剖学と東洋医学を結びつけようとした人物だったのです。
杉田玄白さんの『解体新書』が日本の近代医学への扉を開いたとすれば、三谷公器さんはその後の時代に、「西洋医学を日本の伝統医学とどう結びつけるか」という問題に取り組んだ医師だったといえるでしょう。
まとめ
三谷公器さんは、西洋解剖学と東洋医学を融合させた医学書『解体発蒙』を著した医師・本草学者でした。
『解体発蒙』は、精密な多色刷りの解剖図と、西洋解剖学と東洋医学の「気」や「精神」を区別して考える独自の医学思想が特徴でした。
これからも三谷公器さんの功績を語り継いでいきましょう。
それではありがとうございました。

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