明治時代に「食育」という言葉を生み出し、日本の食文化に大きな影響を与えた石塚左玄さん。
そんな石塚左玄さんですが、なぜ「食育の祖」と呼れるのか、そしてどのような食養の思想を持っていたのか気になりますよね。
そこで今回は、
- 石塚左玄とはどんな人物なのか
- 「食育の祖」と呼ばれる理由と食養の思想
について詳しく見ていきましょう。
石塚左玄とは?

医師・薬剤師として活躍し、陸軍少将にまで上り詰めた石塚左玄さん。
そんな石塚左玄さんですが、一体どのような人物だったのでしょうか。
石塚左玄さんは、1851年に福井県で生まれ、医師・薬剤師として活躍した後、陸軍軍医として陸軍少将・陸軍薬剤監にまでなった人物でした。
石塚左玄さんは1851年、現在の福井市に生まれました。
医学や薬学を学び、医師と薬剤師の資格を取得した後、陸軍軍医として勤務しました。
最終的には陸軍少将・陸軍薬剤監にまでなりました。
しかし、石塚左玄さんが後世に大きな影響を残したのは軍医としての仕事だけではありませんでした。
石塚左玄さんは、病気の予防や健康長寿には、薬だけではなく毎日の食事が極めて重要であると考えました。
そして、食事によって健康を養う「食養」を研究したのです。
代表的な著作には『化学的食物塩類篇』『化学的食養長寿論』『通俗食物養生法』などがあります。
特に1896年の『化学的食養長寿論』は、石塚左玄さんの思想を知るうえで重要な著作となっています。
「食育の祖」と呼ばれる理由と食養の思想をわかりやすく解説!

日本で初めて「食育」という言葉を記した石塚左玄さん。
そんな石塚左玄さんですが、なぜ「食育の祖」と呼ばれ、どのような食養の思想を持っていたのでしょうか。
石塚左玄さんは1896年に「食育」という言葉を日本で初めて記し、食事を健康と教育の基本と考える食養の思想を広めたことから「食育の祖」と呼ばれています。
石塚左玄さんの最大の功績として知られているのが「食育」です。
1896年の『化学的食養長寿論』で、子どもの教育について、体育・知育・才育の基礎には食育があるという考えを示しました。
つまり石塚左玄さんは、人間の成長には何を食べるかが大切であり、食事そのものが教育につながると考えていたのです。
現在の食育基本法では、食育を生きる上での基本であり、知育・徳育・体育の基礎となるものと位置づけています。
そのため、石塚左玄さんの思想は現代の食育にもつながる先駆的な考え方として評価されています。
石塚左玄さんの食養論には、いくつかの特徴がありました。
第一は、食事を健康の基本と考えたことです。
「命は食にある」という考え方を重視し、毎日の食事を大切にしました。
第二は、穀物を中心とした食生活です。
特に日本人の伝統的な食生活を重視し、穀物を中心とした食事をすすめました。
第三は、食物をできるだけ丸ごと食べるという考え方です。
現在でいう自然食に近い発想で、食材の一部分だけを利用するのではなく、できるだけ全体を生かすことを重視しました。
第四は、土地と季節に合った食事です。
石塚左玄さんは、その土地に昔から伝わる食習慣には意味があると考え、地域の食材や旬のものを食べることを重視しました。
これは現代の地産地消や旬の食材を大切にする考え方にも通じます。
石塚左玄さんを語るとき、「身土不二」という言葉もよく登場します。
これは、人間の身体と、その人が暮らす土地や自然環境は密接に関係しているという考え方です。
石塚左玄さんの食養思想は、その後の日本の食養運動に大きな影響を与えました。
さらに弟子や後継者たちを通じて発展し、後のマクロビオティックにもつながっていきました。
石塚左玄さんの先進性は、明治時代に「健康」と「食事」と「教育」を一つの問題として考えたことにあります。
明治時代にすでに「毎日の食事が人間の身体だけでなく、成長や教育にも関係する」と考えていたのが石塚左玄さんでした。
そのため福井県では現在でも、石塚左玄さんを「食育の祖」として紹介しています。
まとめ
石塚左玄さんは、福井県出身の医師・薬剤師で、陸軍少将・陸軍薬剤監まで務めた人物でした。
石塚左玄さんは1896年に「食育」という言葉を日本で初めて記し、食事を健康と教育の基本と考える食養の思想を広めたことから「食育の祖」と呼ばれています。
石塚左玄さんの食養の思想は、穀物を中心とした食生活、食物を丸ごと食べること、土地と季節に合った食事を重視するものでした。
これからも石塚左玄さんの功績を語り継いでいきましょう。
それではありがとうございました。

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