日本の近代農学の発展に大きく貢献し、東京農業大学の初代学長を務めた横井時敬さん。
そんな横井時敬さんですが、「農学栄えて農業亡ぶ」という有名な言葉を残されていますが、どのような思いが込められているのでしょうか。
農業を「机上の学問」に終わらせず、実際の農村や農民の生活から学ぶ実学主義を重視した横井時敬さんの教えは、現在も多くの人々に影響を与えています。
そこで今回は、
- 横井時敬さんとはどのような人物なのか
- 「農学栄えて農業亡ぶ」の言葉に込めた農業への思い
について詳しく見ていきましょう。
横井時敬さんとはどのような人物なのか

明治から大正期に活躍した日本の農学者である横井時敬さん。
そんな横井時敬さんですが、どのような経歴を持ち、どのような功績を残された方なのでしょうか。
横井時敬さんは1860年に熊本県で生まれ、駒場農学校を卒業後、農業教育や研究に携わり、東京農業大学の初代学長を務めた農学者です。
横井時敬さんは熊本洋学校で英語を学んだ後、東京の駒場農学校に進み、1880年に農学科を卒業されました。
駒場農学校は現在の東京大学農学部につながる学校で、横井時敬さんはその第2期生にあたります。
卒業後は兵庫県や福岡県で農業教育に携わり、福岡時代には農業技術の研究と指導に力を注がれました。
その後、農商務省や東京帝国大学などで農学や農業経済学の研究と教育を行い、日本の農学界を代表する存在となりました。
横井時敬さんの代表的な功績の一つが、稲の種籾を塩水で選別する方法、いわゆる塩水選です。
塩水の中に種籾を入れると、充実した重い籾は沈み、未成熟な軽い籾は浮きます。
これによって、発芽や生育が期待できる良質な種籾を選びやすくなりました。
横井時敬さんはこうした農家の経験や伝統的な農法を科学的に検討し、農業改良につなげようとされました。
また、1911年に東京農業大学と改称された際、横井時敬さんが初代学長となられました。
横井時敬さんは農業の現場を理解し、社会で役立つ人材を育てることを重視されました。
その教育理念を象徴するのが、東京農業大学に現在も受け継がれている「実学主義」です。
「農学栄えて農業亡ぶ」の言葉に込めた農業への思い

「稲のことは稲に聞け、農業のことは農民に聞け」という有名な言葉を残した横井時敬さん。
そんな横井時敬さんですが、「農学栄えて農業亡ぶ」という言葉にはどのような農業への思いが込められているのでしょうか。
「農学栄えて農業亡ぶ」という言葉には、農学という学問だけが発展しても、実際の農業や農民の生活が豊かにならなければ意味がないという横井時敬さんの問題意識が込められています。
横井時敬さんにとって、農学は「農業のための学問」であり、農民や農村から離れて存在するものではありませんでした。
「稲のことは稲に聞け、農業のことは農民に聞け」という言葉は、農業について考えるとき、単なる理論や机上の知識だけに頼るのではなく、実際の稲や農地、そして農業を営む農民から学ぶべきだという考え方を表しています。
現在の東京農業大学でも、この考え方は教育や研究の精神として受け継がれています。
横井時敬さんの教育思想を象徴するもう一つの言葉が、「人物を畑に還す」です。
優秀な人材を育て、その人材が農業や農村、地域社会の発展に貢献することを目指されました。
この考え方は、単に農業技術者を育成するだけではなく、農業を支える社会の担い手を育てようとするものでした。
横井時敬さんは農業技術だけでなく、農業経済や農政についても研究されました。
主な著作には『栽培汎論』、『稲作改良法』、『農業汎論』、『農業経済学』、『農村制度の改造』などがあります。
農業を技術だけの問題として捉えず、農民や農村、経済、制度まで含めて考えたことが、横井時敬さんの大きな特徴です。
横井時敬さんは、「農学を農業の現場に結びつけた人物」と考えると、その功績が非常に分かりやすいでしょう。
まとめ
今回は横井時敬さんについて、そして「農学栄えて農業亡ぶ」の言葉に込めた農業への思いについてお伝えしました。
横井時敬さんは1860年に熊本県で生まれ、駒場農学校を卒業後、農業教育や研究に携わり、東京農業大学の初代学長を務めた農学者でした。
「農学栄えて農業亡ぶ」という言葉には、農学という学問だけが発展しても、実際の農業や農民の生活が豊かにならなければ意味がないという横井時敬さんの問題意識が込められていました。
横井時敬さんの思想は現在の東京農業大学にも「実学主義」として受け継がれています。
これからも横井時敬さんの教えが多くの人々に影響を与え続けることを願っています。
それではありがとうございました。

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