江戸時代後期に測量、天文学、塩田開発など幅広い分野で才能を発揮した久米通賢さん。
そんな久米通賢さんですが、一体どのような人物で、なぜ「坂出塩田の父」と呼ばれるようになったのでしょうか。
江戸時代の科学技術を実際の社会問題の解決に活用した、まさに天才技術者と言える存在ですよ。
そこで今回は、
- 久米通賢とは何者なのか
- 「坂出塩田の父」と呼ばれた江戸時代の天才技術者の功績
について詳しく見ていきましょう。
久米通賢とは何者?

測量や天文学、塩田開発など多彩な才能を持っていた久米通賢さん。
そんな久米通賢さんですが、一体どのような人物だったのでしょうか。
久米通賢さんは、1780年から1841年に生きた江戸時代後期の科学者・技術者です。
本名は久米栄左衛門で、讃岐国大川郡馬宿村、現在の香川県東かがわ市に生まれました。
高松藩に仕え、測量、天文学、地図作成、武器開発、土木工事、塩田開発など、非常に幅広い分野で才能を発揮されました。
久米通賢さんは1798年、18歳のころに大坂へ出て、天文学者の間重富の門下で天文暦学や測量術を学びました。
1802年に讃岐へ戻ると、高松藩の仕事として本格的な測量や技術開発に取り組みます。
1806年には藩命によって高松藩領を測量し、自ら考案した測量器具を使って精密な地図を作成しました。
この測量は非常に精度が高く、現在残されている資料からも、当時の久米通賢さんの高度な測量技術を知ることができます。
しかし、久米通賢さんの特徴は、学問を学ぶだけではなく、それを実際の社会問題の解決に利用したことです。
天文学を学んで測量に活用し、測量技術を土木工事に活用し、さらに塩田を造って藩の財政や地域経済の発展につなげました。
香川県に残る久米通賢関係資料は1061点に及び、2014年には重要文化財に指定されています。
これらの資料には、測量図、測量器具、天体観測記録、塩田の設計図、武器の図面などが含まれており、19世紀前半の日本で科学知識がどのように実際の技術へ応用されたのかを知る貴重な資料となっています。
『坂出塩田の父』と呼ばれた江戸時代の天才技術者!

江戸時代の科学技術を実際の社会に役立てた久米通賢さん。
そんな久米通賢さんですが、なぜ「坂出塩田の父」と呼ばれるようになったのでしょうか。
久米通賢さんの最大の功績は、現在の香川県坂出市に巨大な塩田を築いたことです。
当時の高松藩は財政的に苦しい状態にありました。
そこで久米通賢さんは、坂出沖の遠浅の海を利用して大規模な塩田を造り、藩の財政を立て直すことを考えました。
1824年に計画を提案し、1826年には坂出墾田の普請奉行となります。
そして約3年をかけて工事を進め、1829年に東大浜・西大浜などを含む約132ヘクタールの広大な塩田を完成させました。
工事には延べ約194万人が動員され、久米通賢さん自身も私財を投じたとされています。
この塩田は、海水を効率よく導入・排水できるよう工夫されており、後に「久米式塩田」と呼ばれました。
坂出はその後、全国有数の塩の産地へと発展していきます。
また、久米通賢さんは塩田だけの人物ではありません。
鉄砲や大砲などの武器開発にも取り組み、「鋼輪」と呼ばれるゼンマイ式の発火機構や、雷汞を利用した発火装置などを開発しました。
また、軍船や大砲、鉄砲などに関する設計・製造にも携わっています。
さらに、時計や測量器具などの機械製作にも才能を発揮しました。
つまり久米通賢さんは、単なる「塩田開発者」ではなく、江戸時代の科学技術を実際の社会に役立てた技術者だったといえます。
そして、久米通賢さんを一言で表すなら「江戸時代の科学技術を使って、地域そのものを変えた実学の天才」という表現がふさわしい人物でしょう。
特に、測量から土木、塩田開発、地域経済の発展という一連の仕事は、久米通賢さんの大きな特徴です。
現在も坂出市には、久米通賢さんゆかりの碑や神社、資料館などが残されています。
まとめ
今回は久米通賢さんについてお伝えしました。
久米通賢さんは、1780年から1841年に生きた江戸時代後期の科学者・技術者です。
測量、天文学、地図作成、武器開発、土木工事、塩田開発など、非常に幅広い分野で才能を発揮されました。
「坂出塩田の父」と呼ばれた理由は、現在の香川県坂出市に約132ヘクタールの広大な塩田を築いたことです。
この塩田は「久米式塩田」と呼ばれ、坂出を全国有数の塩の産地へと発展させました。
また、武器開発や機械製作にも才能を発揮し、江戸時代の科学技術を実際の社会に役立てた天才技術者でした。
これからも久米通賢さんのご活躍を応援していきましょう。
それではありがとうございました。

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