日本の造船技術を世界レベルに引き上げた平賀譲さん。
そんな平賀譲さんですが、一体どのような人物で、どんな功績を残したのでしょうか。
そこで今回は、
- 平賀譲とは
- 軍艦設計の天才と呼ばれた男の生涯と功績
について詳しく見ていきましょう。
平賀譲とは

「軍艦の父」として知られる平賀譲さん。
そんな平賀譲さんですが、一体どのような人物だったのでしょうか。
平賀譲さんは、1878年から1943年まで生きた日本を代表する造船技術者・海軍技術者でした。
平賀譲さんは1901年に東京帝国大学の造船学科を卒業し、海軍の造船技術者となりました。
その後、イギリスへ留学して造船技術を学び、帰国後は海軍の軍艦設計に携わります。
代表的な艦として知られるのが、戦艦「長門」「陸奥」、巡洋艦「夕張」「古鷹」「妙高」などです。
とりわけ平賀譲さんが得意としたのは、限られた排水量の中で、強力な主砲・防御力・速力などを両立させる設計でした。
第一次世界大戦後の軍縮によって、日本がアメリカやイギリスと同じ規模の艦隊を持つことが難しくなると、こうした「質で対抗する」軍艦設計が重要になりました。
平賀譲さんはその中心人物の一人だったのです。
また、平賀譲さんは軍艦設計だけの人物ではありませんでした。
1919年から東京帝国大学教授として軍艦設計を教え、1935年には工学部長に就任されました。
そして1938年12月20日、東京帝国大学第13代総長に就任します。
1943年2月17日に亡くなるまで総長を務められました。
「軍艦設計の天才」と呼ばれた男の生涯と功績

日本の造船技術を世界に知らしめた平賀譲さん。
そんな平賀譲さんですが、なぜ「軍艦設計の天才」と呼ばれたのでしょうか。
平賀譲さんの設計思想を象徴する艦の一つが軽巡洋艦「夕張」で、比較的小型の船体に強力な兵装を搭載するという意欲的な設計でした。
このような設計によって、日本の造船技術が世界的にも高い水準に達していることを示しました。
平賀譲さん自身も造船技術の研究を続け、1934年にはイギリス王立造船学会からメダルを授与されています。
東京大学によれば、これは日本人として初めての同学会からのメダルでした。
工学部長時代には、工学部総合試験所や試験水槽の設置など、研究設備の充実にも力を注ぎました。
一方で、平賀譲さんの総長時代には「平賀粛学」と呼ばれる大学人事問題も起こりました。
経済学部の対立をめぐり、平賀譲さんが河合栄治郎教授と土方成美教授を休職処分としたことから、多数の教授が辞職する事態となりました。
そのため平賀譲さんは、優れた造船技術者である一方、大学総長としては評価が大きく分かれる人物でもあります。
また、平賀譲さんが残した資料は非常に膨大です。
東京大学などが公開している「平賀譲デジタルアーカイブ」には、軍艦の設計図や技術資料、写真、手紙など、約4万点の資料が収録されています。
そのため、平賀譲さんは単なる「軍艦を設計した人」ではなく、日本の近代造船技術がどのように発展したのかを知ることができる貴重な人物でもあります。
まとめ
平賀譲さんは、1878年から1943年まで生きた日本を代表する造船技術者・海軍技術者でした。
平賀譲さんは戦艦「長門」「陸奥」、巡洋艦「夕張」「古鷹」「妙高」などの設計で知られ、「軍艦の父」と呼ばれています。
また、東京帝国大学第13代総長も務めましたが、「平賀粛学」という大学人事問題でも知られています。
現在も約4万点の関連資料がデジタルアーカイブで公開されており、日本の近代造船技術の発展を知る上で貴重な人物です。
これからも平賀譲さんの功績を語り継いでいきましょう。
それではありがとうございました。

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