大正から昭和初期にかけて2度も内閣総理大臣を務めた若槻礼次郎さん。
そんな若槻礼次郎さんですが、一体どのような人物だったのでしょうか。
また、昭和金融恐慌と満州事変という日本の歴史を大きく変える出来事に直面した総理大臣として、どのような対応をされたのでしょうか。
そこで今回は、
- 若槻礼次郎とは何者なのか
- 昭和金融恐慌と満州事変に直面した2度の総理大臣としての活動
について詳しく見ていきましょう。
若槻礼次郎とは何者?

明治期に官僚として頭角を現し、政界に進出した若槻礼次郎さん。
そんな若槻礼次郎さんですが、一体どのような経歴を持つ人物だったのでしょうか。
若槻礼次郎さんは、1866年に島根県松江市で生まれ、大蔵省で財政の専門家として活躍した後、憲政会の有力政治家となり、第25代と第28代の内閣総理大臣を務めた人物でした。
若槻礼次郎さんは、1866年(慶応2年)に出雲国松江、現在の島根県松江市でお生まれになりました。
明治期には官僚として大蔵省に入省し、予算や税制など国家財政に関わる重要な仕事で能力を発揮されました。
財政・行政の分野で経験を積んだ若槻礼次郎さんは、その後政界に進出されます。
憲政会の有力政治家となった若槻礼次郎さんは、大蔵大臣や内務大臣、貴族院議員などの要職を歴任されました。
そして1926年(大正15年)、若槻礼次郎さんは第25代内閣総理大臣として第一次若槻内閣を組織されます。
若槻礼次郎さんは「穏健な立憲政治家」として知られ、軍事力よりも議会や政党を中心とした政治を重視される方でした。
1949年(昭和24年)に83歳でお亡くなりになるまで、政党政治を守ろうと尽力された政治家だったのです。
昭和金融恐慌と満州事変に直面した2度の総理大臣!

2度にわたって内閣総理大臣を務めた若槻礼次郎さん。
そんな若槻礼次郎さんですが、総理大臣としてどのような困難に直面されたのでしょうか。
若槻礼次郎さんは、第一次内閣では1927年の昭和金融恐慌に、第二次内閣では1931年の満州事変に直面し、いずれも対応に苦慮して総辞職に追い込まれました。
若槻礼次郎さんが最初に総理大臣になられたのは、1926年(大正15年)のことでした。
しかし、この時期の日本は金融不安や政党間の対立など、多くの問題を抱えていました。
1927年には昭和金融恐慌が発生し、若槻内閣は金融恐慌への対応を迫られることになります。
議会での対立もあり、若槻礼次郎さんは最終的に総辞職へ追い込まれてしまいました。
若槻礼次郎さんは1931年(昭和6年)に再び総理大臣になられます。
この第二次若槻内閣の時代に、日本の歴史を大きく変える満州事変が起こりました。
1931年9月、関東軍が南満州鉄道の線路を爆破した柳条湖事件をきっかけに、満州で軍事行動を拡大したのです。
若槻礼次郎さんは軍部の独断的な行動を抑えようとされましたが、政府の統制力には限界がありました。
さらに、政府内でも軍部への対応をめぐって意見が割れ、若槻内閣は1931年12月に総辞職することになります。
若槻礼次郎さんは、政党政治が力を持っていた時代から、軍部が政治に強い影響力を持つ時代への転換点に立っていた政治家だったのです。
第一次若槻内閣では昭和金融恐慌、第二次若槻内閣では満州事変という2つの大きな出来事に直面された若槻礼次郎さん。
穏健な政治姿勢を貫こうとされましたが、時代の大きな流れの中で苦悩された政治家だったと言えるでしょう。
まとめ
若槻礼次郎さんは、1866年に島根県松江市で生まれ、大蔵省で財政の専門家として活躍した後、2度にわたって内閣総理大臣を務めた政治家でした。
第一次若槻内閣では昭和金融恐慌に、第二次若槻内閣では満州事変に直面し、いずれも対応に苦慮して総辞職に追い込まれました。
穏健な立憲政治家として議会や政党を中心とした政治を重視された若槻礼次郎さんは、政党政治から軍部の時代への転換点に立った重要な政治家だったのです。
これからも若槻礼次郎さんのご功績を語り継いでいきましょう。
それではありがとうございました。

コメント