昭和初期の政党政治を代表する政治家として活躍した浜口雄幸さん。
そんな浜口雄幸さんですが、「ライオン宰相」と呼ばれた理由や、その生涯、そして「男子の本懐」という名言について気になりますよね。
第27代内閣総理大臣を務め、財政の健全化や国際協調を重視した政治姿勢で知られる浜口雄幸さんは、昭和という激動の時代に信念を貫いた政治家でした。
そこで今回は、
- 浜口雄幸さんとはどんな人物なのか
- 「ライオン宰相」と呼ばれた政治家の生涯と男子の本懐
について詳しく見ていきましょう。
浜口雄幸とは

官僚から政治家へと転身し、大蔵大臣や内閣総理大臣を務めた浜口雄幸さん。
そんな浜口雄幸さんですが、どのような人物だったのでしょうか。
浜口雄幸さんは、1870年に高知県で生まれ、東京帝国大学法科大学を卒業後、大蔵省に入省した財政・行政の専門家でした。
浜口雄幸さんは1870年、現在の高知県に生まれました。
東京帝国大学法科大学を卒業後、大蔵省に入り、税務関係の仕事を中心に官僚としてキャリアを積んでいきました。
その後、専売局長官、逓信次官、大蔵次官などを歴任し、財政・行政の専門家として頭角を現していきます。
1915年には衆議院議員に初当選し、政界へ本格的に進出しました。
加藤高明内閣では大蔵大臣、第一次若槻内閣では大蔵大臣と内務大臣を務めています。
1927年には立憲民政党の初代総裁となり、1929年7月に内閣総理大臣に就任しました。
首相在任期間は1929年7月2日から1931年4月14日までで、在職日数は652日です。
浜口雄幸さんは非常に質素で謹厳な人物として知られていました。
しかし、一方で、堂々とした風貌から「ライオン宰相」という愛称でも呼ばれ、当時は国民的な人気を集めていたそうです。
「ライオン宰相」と呼ばれた政治家の生涯と男子の本懐

国際協調外交を進め、財政再建に取り組んだ浜口雄幸さん。
そんな浜口雄幸さんですが、「ライオン宰相」と呼ばれた生涯はどのようなものだったのでしょうか。
浜口雄幸さんは、金解禁や海軍軍縮条約に取り組みましたが、1930年に東京駅で狙撃され、その際に「男子の本懐」という言葉を残し、翌年61歳で亡くなりました。
浜口内閣の重要な政策の一つが、金解禁です。
第一次世界大戦後の日本では金輸出が禁止されていましたが、浜口内閣は国際的な金本位制への復帰を目指し、1930年に金輸出解禁を実施しました。
同時に緊縮財政や産業合理化を進め、財政を立て直そうとしました。
しかし、ちょうど世界恐慌の影響が日本にも及んでいたため、金解禁後に日本経済は深刻な不況に見舞われることになります。
外交面では、外務大臣の幣原喜重郎さんとともに国際協調外交を進めました。
1930年にはロンドン海軍軍縮会議に参加し、イギリスやアメリカなどと海軍の軍備を制限する条約を結びました。
しかし、海軍軍令部などから強い反発を受け、野党の政友会からも「統帥権干犯問題」として激しく攻撃されました。
そして、浜口雄幸さんの人生で特に有名なのが、東京駅での狙撃事件です。
1930年11月14日、浜口雄幸さんは東京駅のホームで、右翼青年の佐郷屋留雄に拳銃で狙撃され、腹部に重傷を負いました。
一命は取り留めましたが、傷の回復は思うように進みませんでした。
1931年4月に首相を辞任し、その後も療養を続けましたが、同年8月26日に61歳で亡くなりました。
また、浜口雄幸さんを語るときに有名なのが「男子の本懐」という言葉です。
狙撃された際、浜口雄幸さんが発した言葉として知られています。
政治家として大きな困難に直面しても、自らの信念を貫こうとした浜口雄幸さんの人物像を象徴する言葉として、現在まで伝えられています。
国立国会図書館には浜口雄幸さんの1928年から1931年までの日記が残されており、首相としての仕事やロンドン海軍軍縮問題などを本人の記録から知ることができます。
まとめ
今回は浜口雄幸さんについてお伝えしました。
浜口雄幸さんは、1870年に高知県で生まれ、東京帝国大学を卒業後、大蔵省に入省し、官僚から政治家へと転身した人物でした。
「ライオン宰相」と呼ばれた浜口雄幸さんは、金解禁や海軍軍縮条約に取り組み、国際協調外交を進めましたが、1930年に東京駅で狙撃され、翌年61歳で亡くなりました。
狙撃された際に発した「男子の本懐」という言葉は、信念を貫こうとした浜口雄幸さんの人物像を象徴する名言として現在まで伝えられています。
浜口雄幸さんは、軍部の台頭が本格化する直前の、政党政治の時代を象徴する政治家として、昭和の歴史に大きな足跡を残しました。
これからも浜口雄幸さんの功績を語り継いでいきましょう。
それではありがとうございました。

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