明治・大正期の日本海軍を築き上げ、2度も内閣総理大臣を務めた山本権兵衛さん。
そんな山本権兵衛さんですが、具体的にどのような功績を残した人物なのでしょうか。
そこで今回は、
- 山本権兵衛とは何をした人なのか
- 日本海軍を育てた男の生涯と功績
について詳しく見ていきましょう。
山本権兵衛とは何をした人?

日本海軍の近代化に尽力し、日露戦争を海軍大臣として支えた山本権兵衛さん。
そんな山本権兵衛さんですが、具体的にどのような人物だったのでしょうか。
山本権兵衛さんは、明治・大正期の日本海軍を築き上げ、日露戦争を海軍大臣として支えた軍人・政治家でした。
山本権兵衛さんは1852年10月15日、薩摩国、現在の鹿児島県に生まれました。
薩摩藩士の家に生まれ、戊辰戦争にも従軍しています。
明治維新後は海軍兵学寮で学び、海軍軍人としての道を歩みました。
1895年には海軍省軍務局長となり、1898年から1906年まで山県有朋さん、伊藤博文さん、桂太郎さんの各内閣で海軍大臣を務めています。
山本権兵衛さんは、単なる軍人ではなく、日本海軍を組織として強くした実務型の指導者だったといえます。
一方で、薩摩出身だったことから、長州出身者を中心とする陸軍勢力と対比され、「薩摩の海軍」を代表する人物としても見られました。
そのため、山県有朋さんらの「長州・陸軍」に対して、山本権兵衛さんは「薩摩・海軍」の中心人物という構図で語られることがあります。
日本海軍を育てた男の生涯と功績をわかりやすく解説!

日本海軍の近代化に大きく貢献し、2度も総理大臣を務めた山本権兵衛さん。
そんな山本権兵衛さんですが、どのような生涯を送り、どんな功績を残したのでしょうか。
山本権兵衛さんの最大の功績は、近代日本海軍の整備と、2度の内閣総理大臣としての活躍でした。
山本権兵衛さんは海軍の組織改革や人材育成、艦隊の整備などを進め、日本が列強と対抗できる海軍をつくることに力を注ぎました。
特に海軍内部の人事や組織運営に強い影響力を持ち、「海軍の経営者」とも評価される人物です。
1904年に日露戦争が始まったとき、山本権兵衛さんは海軍大臣でした。
日本海軍はロシアのバルチック艦隊を日本海海戦で破るなど、大きな戦果を挙げました。
山本権兵衛さんは戦争の最前線で艦隊を指揮した司令官ではありませんが、海軍大臣として戦争遂行を支える重要な立場にありました。
その功績によって海軍大将となり、1907年には伯爵となっています。
山本権兵衛さんは軍人としてだけでなく、政治家としても活躍しました。
1913年、第三次桂太郎内閣が大正政変によって退陣すると、山本権兵衛さんが首相となりました。
第一次山本内閣では、軍部大臣現役武官制の改革や文官任用令の改正、行政・財政整理などを進めています。
しかし翌1914年、シーメンス事件が発覚します。
これは日本海軍の高官がドイツのシーメンス社などから軍艦購入をめぐって賄賂を受け取っていた事件で、海軍の腐敗問題として大きな政治問題になりました。
山本権兵衛さん自身が直接賄賂を受け取ったわけではありませんが、海軍を統率する責任を問われ、内閣は総辞職しました。
1923年、関東大震災が発生すると、山本権兵衛さんは再び首相に就任しました。
震災直後の日本を立て直すことが大きな課題となり、山本内閣は復興政策に取り組みました。
ところが同年12月、摂政宮だった裕仁親王さん、後の昭和天皇が虎ノ門付近で狙撃される虎ノ門事件が発生します。
この事件の責任を取る形で、山本内閣は総辞職しました。
2度の総理辞任後は政界の第一線から退き、1933年12月9日に82歳で亡くなりました。
まとめ
今回は山本権兵衛さんについて見てきました。
山本権兵衛さんは、日本海軍を近代化し、日露戦争を海軍大臣として支えた軍人・政治家でした。
山本権兵衛さんの生涯と功績は、近代日本海軍の整備、日露戦争での海軍大臣としての活躍、そして2度の内閣総理大臣としての政治活動でした。
特に重要なのは、日本海軍の近代化、日露戦争、第一次山本内閣、シーメンス事件、第二次山本内閣、関東大震災、虎ノ門事件の7つです。
これらを押さえると、山本権兵衛さんの生涯がかなり理解しやすくなります。
これからも山本権兵衛さんのご功績を語り継いでいきましょう。
それではありがとうございました。

コメント