明治・大正期の陸軍軍人として活躍した長岡外史さん。
そんな長岡外史さんですが、軍人としてだけでなく、日本の航空とスキーの発展に大きく貢献した人物としても知られています。
特徴的な「カイゼルひげ」でも有名な長岡外史さんは、一体どのような生涯を送ったのでしょうか。
そこで今回は、
- 長岡外史さんとはどのような人物なのか
- 日本の航空とスキーの発展にどう尽力したのか
について詳しく見ていきましょう。
長岡外史とは

陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業し、参謀本部や軍務局などで重要な役職を務めた長岡外史さん。
そんな長岡外史さんですが、一体どのような人物だったのでしょうか。
長岡外史さんは1858年(安政5年)に現在の山口県下松市付近で生まれ、陸軍中将として日清・日露戦争で活躍した軍人でした。
長岡外史さんは日清戦争では大島混成旅団の参謀を務めました。
日露戦争では参謀本部次長という重要な役職に就いています。
その後、第13師団長、第16師団長などを歴任しました。
軍人を退いた後も社会活動を続け、1924年には衆議院議員に当選しています。
航空政策の推進などにも取り組み、1933年4月21日に亡くなりました。
また、長岡外史さんは非常に立派な「カイゼルひげ」でも有名でした。
この特徴的なひげは当時から有名で、長岡外史さんを象徴する外見の一つとなっていたようです。
日本の航空とスキーの発展に尽力した軍人の生涯

軍人として輝かしい経歴を持つ長岡外史さん。
そんな長岡外史さんですが、日本の航空とスキーの発展にどのように尽力したのでしょうか。
長岡外史さんは日本のスキー普及と航空発展の両方に大きく貢献し、特にレルヒさんとともにスキーを広め、臨時軍用気球研究会の初代会長として航空技術の発展を後押ししました。
長岡外史さんが新潟県高田の陸軍第13師団長を務めていた時期、オーストリア・ハンガリー帝国の軍人テオドール・フォン・レルヒさんが日本を訪れました。
長岡外史さんはレルヒさんからスキーの技術を学ぶ機会をつくり、陸軍将兵へのスキー指導を進めたのです。
これが日本のスキー普及の大きなきっかけとなり、現在の上越市周辺は「日本スキー発祥の地」として知られています。
航空の発展にも強い関心を持っていた長岡外史さんは、1909年(明治42年)に設立された陸海軍共同の臨時軍用気球研究会の初代会長を務めました。
この研究会は、気球だけでなく飛行機についても研究を進め、日本の航空技術発展の重要な出発点となりました。
1910年には徳川好敏さんと日野熊蔵さんが東京・代々木練兵場で日本人による国内初の動力飛行に成功しています。
長岡外史さんはその後も航空界の発展に尽力し、帝国飛行協会の副会長などを務めました。
1923年には、航空行政を統一するための「航空省」を設置するよう議会に請願しています。
当時は航空行政が複数の省庁に分かれていたため、長岡外史さんは航空を国家的に育成するための中央機関が必要だと考えていたのです。
興味深いエピソードとして、日清戦争中に飛行機の研究をしていた二宮忠八さんが軍用飛行器の開発について軍に協力を求めた際、当時の長岡外史さんはその提案を受け入れませんでした。
しかし、その後、日本の航空史が発展していく中で、長岡外史さんは自分の判断を振り返り、二宮忠八さんに謝罪したとされています。
このエピソードは、長岡外史さんが後年、航空の発展に熱心に取り組んだ背景を考えるうえでも非常に興味深いものです。
まとめ
長岡外史さんは1858年に山口県下松市付近で生まれ、陸軍中将として日清・日露戦争で活躍した軍人でした。
長岡外史さんは日本のスキー普及に大きく貢献し、レルヒさんとともに陸軍将兵へのスキー指導を進めました。
また、臨時軍用気球研究会の初代会長や帝国飛行協会の副会長として、日本の航空発展を後押ししました。
長岡外史さんは軍事だけでなく、スキー、航空、政治、スポーツ振興など幅広い分野に関わった、非常に行動範囲の広い人物だったといえます。
これからも長岡外史さんの功績を語り継いでいきましょう。
それではありがとうございました。

コメント