日本の化学工業の発展に大きく貢献した実業家・野口遵さん。
そんな野口遵さんですが、具体的にどのような功績を残した人物なのでしょうか。
野口遵さんは、水力発電と電気化学工業を結びつけ、日本の近代化学工業の基礎を築いた先駆者として知られています。
その事業は現在の旭化成やチッソなど、多くの大企業につながっているんですよ。
そこで今回は、
- 野口遵とは何をした人なのか
- 日本の化学工業を変えた電気化学の先駆者の生涯と功績
について詳しく見ていきましょう。
野口遵とは何をした人?

日本の化学工業界に革命をもたらした野口遵さん。
そんな野口遵さんですが、一体どのような人物で何をした人なのでしょうか。
野口遵さんは、1873年に石川県金沢市で生まれ、水力発電と電気化学工業を組み合わせて日本の化学工業を大きく発展させた実業家・技術者でした。
野口遵さんの名前は「したがう」と読みますが、「じゅん」という通称でも呼ばれていたそうです。
野口遵さんは、シーメンス系の技術者として水力発電に関わった後、1902年に宮城県仙台市の三居沢で日本初のカーバイド製造事業に取り組みました。
カーバイドとは、石灰と炭素を電気炉で反応させて作る炭化カルシウムのことで、水を加えるとアセチレンガスが発生するんです。
つまり野口遵さんは、豊富な水力で得られる電力を化学工業に利用するという、当時としては非常に先進的な発想を持っていたんですね。
1908年には日本窒素肥料株式会社を設立し、これが後の日窒コンツェルン発展の中心となりました。
熊本県水俣では石灰窒素の製造を企業化し、さらに硫安を製造する一貫工場を建設して化学肥料の国産化を進めたんです。
野口遵さんの最大の功績の一つが、1921年にヨーロッパを訪れた際、イタリアの技術者ルイジ・カザレーさんのアンモニア合成技術に注目したことでした。
そして1923年10月、宮崎県延岡で日本初となるカザレー法によるアンモニア合成を実現したんです。
これにより窒素肥料の国産化が大きく前進し、日本の化学工業史における大きな転換点となりました。
また野口遵さんは、1921年にドイツのグランツシュトフ社とレーヨンの特許譲渡契約を結び、1924年には旭絹織の膳所工場で操業を開始するなど、レーヨン事業にも進出しました。
野口遵さんは海外の最新技術を積極的に導入し、水力発電と結びつけて大規模な工場で工業化するという方法で、日本の近代化学工業を大きく押し進めた人物だったんですね。
日本の化学工業を変えた電気化学の先駆者の生涯と功績!

電力と化学を結びつけた革新的な経営者・野口遵さん。
そんな野口遵さんですが、その生涯と功績はどのようなものだったのでしょうか。
野口遵さんの生涯は、1873年の誕生から1944年の死去まで、一貫して日本の化学工業発展に捧げられ、その功績は現在の旭化成、チッソ、信越化学工業、積水化学工業などにつながる企業群の基礎となりました。
野口遵さんの特徴を一言で表すなら、「水力発電で生み出した電力を、化学工業の発展につなげた人物」と言えるでしょう。
当時の日本では、水力発電によって大量の電力を得られる地域がありました。
野口遵さんはその電力を単に電灯や動力に使うだけでなく、カーバイド、肥料、アンモニア、人造絹糸などの化学工業に利用するという事業モデルを築いたんです。
この考え方によって、電力事業と化学工業を一体化させた巨大な企業グループを形成していきました。
野口遵さんは日本国内だけでなく、朝鮮半島にも大規模に進出し、朝鮮窒素肥料などを設立して水力発電を利用した大規模な化学工業を展開しました。
その事業規模から、野口遵さんは「朝鮮半島の事業王」とも呼ばれたそうです。
野口遵さんの功績で特に重要なのが、海外の最新技術を見つけ、日本に導入し、水力発電と結びつけ、大規模な工場で工業化し、肥料や化学繊維などの国産化を進めるという一連のプロセスを確立したことです。
特に1923年の延岡におけるカザレー法アンモニア合成は、野口遵さんを語るうえで最大のハイライトと言ってよいでしょう。
野口遵さんが築いた事業の系譜は、現在の旭化成などにもつながっており、日本の電気化学工業と化学企業の巨大な礎を築いた先駆者として非常に重要な人物なんですね。
まとめ
今回は野口遵さんについて詳しく見てきました。
野口遵さんは、水力発電と電気化学工業を組み合わせて日本の化学工業を大きく発展させた実業家・技術者でした。
野口遵さんの生涯と功績は、1873年の誕生から1944年の死去まで日本の化学工業発展に捧げられ、現在の旭化成、チッソ、信越化学工業、積水化学工業などにつながる企業群の基礎となりました。
これからも野口遵さんの功績を語り継いでいきましょう。
それではありがとうございました。

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