戦国時代に九鬼水軍を率いて織田信長さんや豊臣秀吉さんに仕えた九鬼嘉隆さん。
そんな九鬼嘉隆さんですが、一体どのような人物だったのでしょうか。
また、九鬼水軍を率いた海の戦国武将としての活躍や、鉄甲船の真実についても気になりますよね。
そこで今回は、
- 九鬼嘉隆さんとはどのような人物なのか
- 九鬼水軍を率いた海の戦国武将と鉄甲船の真実
について詳しく見ていきましょう。
九鬼嘉隆とは?

織田信長さんや豊臣秀吉さんに仕え、水軍を率いて活躍した九鬼嘉隆さん。
そんな九鬼嘉隆さんですが、一体どのような人物だったのでしょうか。
九鬼嘉隆さんは、1542年から1600年まで生きた安土桃山時代を代表する水軍武将で、最終的には鳥羽城を築き3万5千石を領する大名にまで出世した人物でした。
九鬼嘉隆さんは、現在の三重県志摩地方を拠点としていました。
志摩国の国衆である九鬼定隆さんの次男として生まれた嘉隆さんは、兄の死後に家督を継ぎました。
当時の九鬼氏は志摩地方の有力勢力の一つではありましたが、まだ大大名ではありませんでした。
嘉隆さんは志摩の各勢力との争いを制して勢力を拡大していきます。
やがて織田信長さんに仕えるようになり、九鬼水軍を率いて織田軍の海上作戦を支える存在となりました。
1582年に本能寺の変で信長さんが亡くなると、嘉隆さんはその後、豊臣秀吉さんに仕えました。
秀吉さんの四国征伐や九州平定、小田原征伐などにも水軍の将として参加しています。
こうした功績によって嘉隆さんは大名としての地位を確立し、鳥羽を本拠地として鳥羽城を築きました。
九鬼嘉隆さんは単なる海賊武将ではなく、水軍を軍事力として活用しながら領国支配を行う戦国大名へと成長した人物だったのです。
九鬼水軍を率いた海の戦国武将と鉄甲船の真実!

九鬼水軍を率いて織田信長さんや豊臣秀吉さんに仕えた九鬼嘉隆さん。
そんな九鬼嘉隆さんですが、海の戦国武将としてどのような活躍をし、鉄甲船の真実とはどのようなものだったのでしょうか。
九鬼嘉隆さんは九鬼水軍を率いて伊勢長島の一向一揆や石山本願寺攻めなどで活躍し、特に第二次木津川口の戦いでは鉄板で装甲した大型船である鉄甲船を投入して毛利水軍と戦いました。
九鬼嘉隆さんを語るうえで欠かせないのが、九鬼水軍です。
嘉隆さんは伊勢長島の一向一揆や石山本願寺攻めなどで水軍を率いて戦いました。
特に有名なのが、1578年の第二次木津川口の戦いです。
織田信長さんと石山本願寺が戦っていた際、本願寺側には毛利氏の水軍が援軍として送り込まれていました。
これに対して嘉隆さんは大型船を中心とする水軍を率いて毛利水軍と戦い、織田軍の海上輸送を支えました。
この戦いで特に知られているのが、いわゆる鉄甲船です。
鉄板で装甲した大型船を投入したとされ、当時としては非常に画期的な軍船でした。
ただし、世界初の鉄張り船といった表現については後世の評価も含まれるため、現在では史料に基づいて慎重に説明する必要があります。
さらに1592年から始まった文禄の役では、日本丸と呼ばれる大型船を中心とした船団を率いて朝鮮半島へ出兵しました。
日本丸は全長約33メートル、幅約11メートルほどの大型船で、大砲も搭載していたとされています。
鳥羽城は海に面した立地を利用した城で、海上交通と水軍を重視した嘉隆さんらしい城だったといえます。
九鬼嘉隆さんの人生で最も劇的なのが、1600年の関ヶ原の戦いです。
このとき嘉隆さんは西軍側につきました。
一方、息子の九鬼守隆さんは東軍側につきました。
つまり、父と息子が敵味方に分かれることになったのです。
これは九鬼家を存続させるための判断だったとも考えられており、どちらが勝っても九鬼家が生き残れるようにしたという見方があります。
しかし関ヶ原では西軍が敗北します。
嘉隆さんは答志島へ逃れましたが、守隆さんは父の助命を徳川家康さんに願い出ました。
家康さんから助命の許可を得ることには成功しましたが、その知らせが届く前に、嘉隆さんは1600年、答志島で自害しました。
現在も三重県鳥羽市には九鬼嘉隆さんゆかりの場所が残されており、答志島には嘉隆さんの墓とされる五輪塔があります。
まとめ
九鬼嘉隆さんは、1542年から1600年まで生きた安土桃山時代を代表する水軍武将で、最終的には鳥羽城を築き3万5千石を領する大名にまで出世した人物でした。
九鬼嘉隆さんは九鬼水軍を率いて伊勢長島の一向一揆や石山本願寺攻めなどで活躍し、特に第二次木津川口の戦いでは鉄板で装甲した大型船である鉄甲船を投入して毛利水軍と戦いました。
これからも九鬼嘉隆さんのご活躍を応援していきましょう。
それではありがとうございました。

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